2009年12月25日 (金)

祝・60000。

更新が滞ってちゃんとチェックをしていなかったら、アクセス数がいつのまにか60000を超えていました。

多くの方々にご覧いただき、本当に感謝しております。

今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

さあ、がんばって更新だ。

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00年代

仕事と忘年会が続いて更新が滞ってしまった。年内に終わらせるべき仕事がまだ残っている。

もうすぐ2009年が終わる。

私の中ではいつもそうなのだが、この「9年」というのがいつも年代の区切りのように思え、例えば高校生の頃、80年になった時は「あー、80年代がやってきたのだな」と思った。60年代も、何故か69年で終わっているような気がしてならない。

なので、勝手にそう解釈すると、今年は00年代から10年代への区切りのように思えるので(そもそも、2000年から今年までの約10年間を何と呼称するのかよくわからないので、ひとまず00年代としておく。といういい加減なものだが)、この10年はどうだったのかと考えてみたい。

幕開けは2000年初頭の「2000年問題」だった。偶然の重なるコンピューターの誤作動によって、場合によっては世界中のコンピューターが止まってしまうのではないかという騒ぎで、実際どうだったのかは知らないが、政府や各企業がこれに対処して切り抜けた。

何とも妙な幕開けだった。

そして今思うと、それは「失われた10年」と言われた90年代の傷をまだまだ引きずっていた時代。バブルが弾け、経済が失速したまま低空飛行を続けた日本経済が、ほんのわずかに立ち直ろうとしていた頃で、そうは言いながらも「ほんとに再生なんてするのだろうか」という漠然とした不安もあったように思う。

その不安は2001年のいわゆる9.11で増大し、あのショックは今だに深く続いているようにも思える。

だが、その結果アメリカがずるずると戦争に傾倒していき、逆に日本は「再生」と言えるのかどうか定かではない「プチ・バブル」に突入していった。

それを実感できる一番わかりやすい風景があって、新橋からゆりかもめに乗ってレインボーブリッジにさしかかると、港周辺に驚くほどの高層マンションが林立している。私が初めて連続ドラマを書いたのがちょうど2000年で、当時はお台場に行くのにゆりかもめしか交通手段がなかったからよく乗ったのだが、当時はそこは単に港でしかなく、マンションは数えるほどだった。00年代前半から中盤にかけてのプチ・バブルで飛躍的に増大したマンション需要である(実際のところ、どれくらいの需要があるのかは私はよく知らないが)。

この00年代は、日本の政治がジェットコースーターのように上ったり下りたり、回転したりきりもみになったり、トンネルに入ったり出てきたりという年代でもあった。今となっては、一時の自民党人気が不思議なほど、日本の政局は様変わりし、そしてここへきてまたも揺れている。

一方、このブログにもよく書いているのだが、おそらくコンピューターの一般への浸透度もかなりのもので、この年代は「普及」が加速度的に進んだ10年だったのではないかとも思う。いま考えると信じられないが、例えば2000年の頃、私はワープロソフトで書いた脚本をA4用紙に印刷して、それをテレビ局やスタジオにファックスで送っていた。締切のギリギリになると、印刷にかかる時間が結構長かったので、それを計算にいれなければならない時もあった。メールや添付ファイルはまだ使っていなかったのだ。既にメールは登場していたし使っている脚本家もいたが、「メールかファックスかどちらか」と言えば、まだまだファックスが多かったような気がする。

今では、メールなくしては脚本という仕事はほぼ成立しない。

そして、メールはさておき、この年代の最後になってリーマン・ショックがやってきた。それはかつての日本の「失われた10年」が小僧に見えるほどの、全世界的な規模である。

そう考えてみると、この10年は、2000年問題を乗り切ってコンピューター・テクノロジーに加速度がついたのとは裏腹に、世の中は大波のように揺れに揺れた10年だったのではないだろうか。人間の歴史とは、技術のみでは如何ともしがたい不安定なものらしい。

この「大揺れの10年」が、歴史の中でどのような位置に立つのかはまだわからない。予測は不可能である。

ひるがえって自分の10年を考えてみると唖然とするのだが……。

私はこの10年、世間のそういう「大揺れ」を横目でチラチラと見ながらも、ただひたすら原稿を書き続けてきた。それ以外に何をしたかと言われればほとんど何もしていない。仕事にしても、せいぜいファックスがメールの添付ファイルに変わった程度で、やっている事は10年前と何も変わらないのだ。

せいぜい変化があったとすれば、CG技術が飛躍的に進んだお陰で、10年前には「撮影不可能」を理由に書けなかったような内容の脚本が書けるようになった事ぐらいだろうか。だがそれも、私がCG技術を推し進めた訳ではないから、単なる物書きとしては技術の進化の恩恵に預かっているに過ぎない。

今から10年後に振り返った時、私のこの状態がどうなっているのか、全くわからない。

楽しみでもあり、それで大丈夫なのか?と思ったりもする00年代末の私。

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2009年12月19日 (土)

知とともに戦う

ここ数日、作家に関する事があれこれ気になっている。

先日、NHKのドキュメントで、立花隆さんがガン細胞に挑むという内容のものを観た。

立花さんは作家には違いないが小説家ではなく、評論家及び稀代のジャーナリストである。

私が中学生だった頃、有名なロッキード事件というのが起きた。田中角栄元総理を中心とする政府中枢の数人が、アメリカの新型航空機導入に際して便宜を図るために、アメリカの航空機メーカー、ロッキード社から巨額の賄賂を受け取ったらしいという事件である。

田中角栄氏は70年代にあれよあれよという間に出世を遂げ、総理にまで登り詰めた。その猛烈な出世ぶりが世間でもてはやされ、「今太閤」などと呼ばれたりした。私も小学生の頃、通っていた歯医者さんの待合室で、「田中角栄物語」というマンガを読んだりしたくらいだ。

だが、ロッキード事件が起き、世間の政治不信はその頂点を極め、特に中学生で多感な時期だった私たちなどは、「大人とか政治家って信用できないよな」という根深い不信感を植え付けられてしまった。政治の責任はかくも大きい。

で、その当時、文芸春秋を主な活動媒体とし、田中氏の裏側とロッキード事件にまつわるあれこれを暴き続けていった、その先陣をきっていたのが立花氏だった。暴くといっても、彼の文章はおよそスキャンダラスなものではなく、沈着冷静、誠に論理的で、「これはどう考えてもおかしいだろう」という鋭い舌鋒で元首相を追い詰め、やがて事件の全貌が明るみに出るに至った。

私が最も多感だった思春期の頃、立花氏はジャーナーリストとして私のヒーローだった。

その後、彼の著作をいくつも読んだ。臨死体験を究極まで突き詰めようとしたいくつかの本も読んだし、「知とは何か」という類の思索も読んだ。近年では、「天皇と東大」という、この国の天皇制と東大の密接な関係を歴史の流れに沿って紐解いた大部な本も読んだ。

その立花氏が、今から二年前に膀胱癌を発病したのだという。

先日観たドキュメントは、立花氏が自らNHKに依頼し、自分の癌をとっかかりにして、「癌細胞とは何か」という難題に挑む番組だった。

ここで重要なのは、立花氏の膀胱癌は除去されたが転移の可能性が極めて高く、従ってこの先いついかなる時に、別の臓器で再発するかもしれないという危険をはらんでいるという点。

立花氏は、田中角栄氏の欺瞞にジャーナリストとして立ち向かった時から「知」の人だった。常に「知」を駆使し、それをもって強力な武器とし、取材対象を徹底的に分析していくという手法をとる。しかも、今回は、自らの体内に癌細胞が潜伏し続けているという状態でありながら、それを自らの「知」を武器に解明しようという、健康な私などから見ると唖然とするようなジャーナリスト魂を見せていた。

番組はあくまで淡々と作られていたが、取材をすればするほど、癌細胞の狡猾さと生命力の強さ、そして人間が生きていく上で必要とする細胞を「利用」しながら自らを増殖させていくバケモノのような恐ろしさが浮き彫りになり、戦慄させられた。つまり、調べれば調べるほど癌は人類に対して「脅威」として立ちはだかり、番組内でのとある研究者によれば、この先50年は克服は無理だろうという事だった。

番組の最後に立花氏はカメラに向かって淡々と言っていた。

立花氏「私は今69歳で、この先数年生きたとしても、あるいは癌によって死んだとしても、余命の長さはさほど変わりません」

実際、ご本人がどれだけ達観しているのかは見当もつかないが、それにしても、あくまでも、自分の命ですら冷静に「知をもって分析しよう」とする姿勢には、静かな凄味があった。

かつて私のヒーローであった立花氏。

彼の「知とともに戦う」姿勢を最後までしっかり見届けたいと思う私。

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2009年12月18日 (金)

アーサーの巨大な器

毎日本格的な冬である。晴れていてもかなり寒い。

以前にイギリスの作家ジャック・ヒギンズの事を書いたが、またふっと別の作家を思い出した。かつてひいきにしていて、新刊が出ると急いで買いに行った作家である。

アーサー・ヘイリー。1920年にイギリスに生まれた人で、つい5年ほど前の2004年に亡くなった。だが、作品はほぼ全てアメリカを舞台にしたもので、70年代以降は巨額の所得税課税を回避するためにバハマに移住していたと、ウィキペディアに書いてある。

最初に知ったのは、実は小説ではなく、映像化されたアメリカのテレビ映画である。テレビ映画とは不思議なジャンルだが、要は一時間30分くらいの単発作品で、これが山のように製作されていた時期があった。

そのタイトルは「0-8滑走路」という。ちゃんと調べた訳ではないので確証はないが、ひょっとするとこれはパニック物の原点のような小品で、だが極めて面白かった。

アメリカの旅客機がお客さんを大勢乗せてフライトの最中である。だが、機内食から食中毒が発生する。それだけならドラマにはなり得ないのだが、このお話のミソは、機長とクルー全員もその機内食を食べてしまうところで、つまり、食当たりがひどくて操縦できる人間がいなくなってしまうのだ。

と、機内に一人、ベトナムでヘリコプターのパイロットをしていたという若い乗客が見つかる。彼はたまたま機内食を食べていない(か、もしくは食べたけど何故か一人だけ平気だったというネタだったかもしれない)。いずれにしても背に腹は変えられない。彼はたった一人で、食中毒で意識がもうろうとしている機長や、地上の管制塔からの指示に従い、巨大な飛行機を操縦していくというサスペンスだった。いま書くと何ともおとなしい話だが、こういうアイデアを最初に考え出す人というのは偉いと思うのだ。ちなみに、テレビで放送された時、主人公の日本語吹き替えを、若かりし頃の江守徹さんがやっていたのを覚えている。

しばらくして本屋さんに行くと、その原作が売られていた。文庫本だから安い。買ってきて読んでみると、ドラマで割愛された飛行機操縦のディティールがとても詳細で、ハラハラドキドキの連続だった。

アメリカでは、その後の「ホテル」という作品で一躍ベストセラー作家になったのだという。これも後に読んで面白かったが、その白眉は「大空港」だと思う。

これはかなりの大作で映画化もされ、私は映画版も大好きで今でも時々見返すが、原作はさらに面白い。猛烈な吹雪で閉鎖寸前になっている巨大空港が舞台。様々なエピソード、様々な人々が次々に現れ、重層的なドラマが織りなされていく。空港のスタッフたちは、猛吹雪と戦い、妻に保険金を残すために爆弾を抱えて旅客機に乗ってしまった自殺志願の男と戦い、空港周辺住民との騒音訴訟と戦い、さらには過密する航空ダイヤによるニアミスの危険と戦い、つまりそれぞれのセクションのいろんな登場人物たちが、ある一夜の空港を舞台に、いろんなものと戦いまくる物語である。

当時よく言われたのは、アーサー・ヘイリーの小説は「メカニズム」なのだという事。これは機械という意味ではなく、ある巨大組織、または空港という巨大システムが運営されているそのメカニズムを中心に据え、そこに携わる人々の悲喜こもごもをダイナミックに描いていくという事である。そう言われれば、「大空港」は正にそうで、途中から、空港そのものが一つの大きな恐竜のように、つまり生き物のように錯覚してしまうほどの描写力なのだ。

ただ、もし興味があってこれから読まれる方がいるようなら一つだけ言っておくと、彼の小説は基本的にほぼ70年代に書かれたものだから、今読むとおそらく、そういったシステムが古いという点は否めないだろう。ただし、当時は「リアリズムの極致」のような言われ方をしていたから、ある意味70年代のアメリカ社会のリアルな記録と思って読めば問題ないかもしれない。それに、キャラクターは皆個性的だし、ストーリーテリングが抜群にうまいので、ちゃんと読めると思う。

その後、「自動車」というのがあった。これは以前にこのブログにちょこっとだけ書いたが、デトロイトの巨大自動車メーカー(モデルはフォードだと言われている)を舞台に、自動車の開発競争や、毎日湯水のように企業に入ってくるお金の行方、欲望、陰謀、労働者の賃金闘争などが、やはりめいっぱい詰め込まれていて面白い。

さらに「大空港」と肩を並べるくらい面白いと思うのだが、「マネーチェンジャーズ」という作品もあって、これはアメリカの銀行や投資家たち、つまり「マネーをチェンジする人たち」の物語。こちらは、「自動車」に輪をかけて人間の欲望がむき出しになっていて、何しろ日々お金を扱う人々のお話だから、かなり生臭いエピソードが頻発する。それでいて、銀行の表向きはどっしりとした構えで、その贅を尽くした作りの銀行に巨額の資金を持つ投資家たちが入れ替わりやってきては権謀術数の限りをつくす。そのギャップも印象的である。

ちなみに、「自動車」も「マネーチェンジャーズ」も、アメリカのテレビでドラマ化された。いずれも、全部で4時間とか5時間の大作だった。アーサー・ヘイリーの小説は、そのディティールの精密さとエピソードの多さが魅力的なので、2時間程度の映画にしてはしょってしまうより、このスタイルの方が合っていたのだろう。

最後にもう一つ。これも好きな作品で「ストロング・メディスン」というのがある。これはとても大きな製薬会社のお話で、当時の製薬業界の裏側を赤裸々に描いたと言われて売れに売れた。いまはどうかよく知らないのだが、当時は薬は大きく二つのカテゴリーに分けられていて、一つが「ストロング・メディスン」、もう一つが「ソフト・メディスン」。ストロングとは、その会社の生命線となる、調剤薬局に置いてもらう薬の事で、病院で処方箋をもらった患者が買いに行くアレである(日本ではまだこういうシステムがなかった頃の作品なので、それ自体が私には珍しかった)。この薬は会社に莫大な富をもたらし、経営基盤となるので「ストロング」と呼ばれている。一方「ソフト」とは、テレビでCMをしているような風邪薬や胃腸薬の事で、実は企業にとってさほどうまみはないのだという(重ねて言うが、今はどうかは知らない)。ただ、この「ソフト」は製薬会社のイメージアップと宣伝には絶大な効果があり、やはり企業にとっては重要なファクターである事には間違いない。

お話の中に、この「ソフト」の新商品の宣伝会議の場面が出てくる。宣伝部の人は広告代理店のスタッフに言う。

宣伝部の人「いいですか、最も売れる薬のCMの極意があります。とにかく子供とその母親を登場させて下さい。子供は熱を出してベッドに寝ている。母親は生活に疲れ、子供の身を案じ、髪は必ずほつれてひどい状態に演出して下さい。親の危機感を煽るのです。ドラッグストアでわが社の製品を買った母は子にそれを飲ませる。すると熱がひき、次のショットでは母の髪のほつれはなおっている。これで売り上げは確実に1.5倍になるのです」

実は、私が社会人になって映像制作会社に入り、研修でCM製作の偉い人の講習を聞いた時、その人が、偶然だが全く同じ話をしていて驚いた記憶がある。「アーサー・ヘイリーの取材力、恐るべし」と思ったものだ。

あまりに膨大な取材をしてから書く人だっので、作品数は少ない。だが、そのどれもが、巨大企業という一つの大きな器の中に放り込まれた人間たちが右往左往したり、懸命に何かをなしとげようとしたり、あるいは逆に誰かを妨害したりという、どこの国でも会社ならありそうな話ばかりで面白い。しかも、今となっては、70年代のアメリカの社会や物の考え方、風俗をかなり正確に知る事のできる資料ともなっている。

興味のある方は、年末年始のお休みにぜひどうぞ。

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2009年12月17日 (木)

未来について

今年もあと二週間である。師走の喧騒とは裏腹に、静かな仕事部屋で日々原稿を書いている。

もうすぐ2010年がやってくる。

例えば、今から9年前、「今年は2001年か」と思ったのと同時に、「そう言えば2001年宇宙の旅は今年の映画なのだな」と変な感慨があった。言わずと知れたスタンリー・キューブリック監督の傑作中の傑作で、その時点で制作されてからおよそ30年弱が経過していた。

で、その続編である「2010年」。来年は、この「2010年」という、公開当時に「傑作の名を汚した続編」だの、「最悪」だの、挙句は「前作に謝れ」だの、罵詈雑言を浴びた映画が描いた年がやってくる。

私は実はこの映画そんなに嫌いではない。いや、なかなかに面白かった記憶がある。もう長い間観ていないので、今観るとどうかわからないが、少なくともこちら側は月日を経て少々穏やかに映画を観る心持ちになっているので、多分大丈夫だと思う。

前作のラストで、主人公の乗った宇宙船が、木星辺りで消息を絶った。この続編は、再び木星へ探査船を向かわせ、その真相を探るという作りになっていた。当時斬新だったのは、登場する船がアメリカのものではなくソ連(当時はまだソ連だった)の船で、レオノフ号といういかつい探査船。そこに、アメリカとソ連の科学者たちの合同チームが乗り、木製を目指すのだが、その途中で、地球上で米ソが一触即発の事態に陥り、船内のアメリカ人とソ連人のチームもまたその煽りで緊迫するというストーリーだった。

日本で公開されたのは1985年。私は大学生で、数人の友達と一緒にロードショー館に観に行った。上映後、友達は皆不服で文句を言っていたが、私は「うーん、そんなに悪くないんだけどなー」などと言って、皆と意見がかみ合わなかったのを覚えている。

長い前置きになってしまった。

この映画のスタッフが描いた2010年のテクノロジーは、現実よりもだいぶ進んでいる。まず、ご承知の通り、人類は今もって木星まで有人宇宙船を飛ばす事はできない。仮に生けたとして生命維持装置の問題や、地球との交信の問題は、あの映画ほどスムーズにはいかないだろう。それに、世界的な不況や環境問題を考えると、あれほどの大プロジェクト(有人による木星探査)は、テクノロジー以前に政治や経済の壁に阻まれてしまう。それと、これは映画とは関係ない事だが、この映画を観た当時は、2010年にアメリカの大統領が黒人になっているとは夢にも思わなかった……。

だが、事コンピューター技術に関しては、2010年に登場するそれのひな形くらいまでには進歩しているような気がする。そもそも、私たちの日常にかくも当たり前にコンピューターが浸透した事自体、20数年前の大学生の私が見たらひっくり返るほどの進歩である。前作の「2001年」ではHAL9000という人工知能のコンピューターが人間に対して反乱を起こすという描写があるが、人工知能=コンピューター・テクノロジーだと考えると、今なら何となくわからなくもない。現に、今ではカーナビがしゃべって道を教えてくれるのである。ごく大雑把に言えば、プチ・HAL9000が車に搭載されているようなものだ。

長々となにを書いているのかというと、「未来」というものはこのように予測しづらいものだという事。無論、「2010年」を観た当時、数十年後に人類が木星に行けるかどうかは定かではないと思いつつも、「もしかしたらそれくらいにはなってるかもな」と思ったのもまた事実なのだ。

未来とは、単にテクノロジーの進化だけでは計り知れない紆余曲折を経て形成されるもので、例えば、「2001年」に登場したスペースシャトルにはパン・アメリカンのマークがついていたが、パン・アメリカンという会社自体がその後消滅してしまったし、「2010年」のソ連だって、だいぶ前にこの地上から姿を消した。全て政治や経済、歴史の止めようのない流れの中で起きた変化で、この予測は楽しいがそう簡単には的中しない。

もっと言えば、自分の将来だって、想像するのは楽しいが、私に限って言うとほぼ当たらない。有楽町の大きな映画館で「2010年」を観た大学生の私が、後に、日々原稿を書いているとは想像のしようもなく、そもそもパソコンで文章を書くという事自体が、当時はかなりSF的な発想に近かった。

にも関わらず、日々の風景は数十年前とさして変わらず、正月が来れば餅を食べて初詣に行くし、都心には数々のビルが増えたものの住宅地のたたずまいは相変わらずである。

これが2019年になると、今度は「フレードランナー」の年になる。あの映画の中では、ハリソン・フォードの刑事は空を飛ぶパトカーに乗っていたが、今から10年後に車が空を飛ぶとも思えず、また、近頃のエコの観点から言っても、飛ばす必然性があまりない(間抜けな事に、当時の私は、きっと2019年には車は空を飛んでいるかもしれないと単純に思っていた)。ましてや、人間を憎悪したレプリカントたちが人を殺し、それを刑事が追うという事件は多分起きないだろう。

数十前の人々が想像した未来が実際にやって来ると、いつもそんなこんなを考えてしまう私。

きっと、数十年前の予想とは、かなり違う未来がやってくるところが面白いのだと思う年の瀬である。

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2009年12月12日 (土)

最高の

変な日本語だが、「毎日が師走」である。とにかく忙しく、かつ慌ただしい。

突然だが、皆さんは、「男が手を出してはいけない三種の神器」という言葉をご存じだろうか。「手を出してはいけない」のだから「神器」ではあり得ないのだが、ある人からこの言葉の説明を聞いた時、なるほどと思った。

その三種とは、「車」、「腕時計」、「オーディオ」なのだという。いずれも、ハマりこんで趣味にすると途方もないお金がかかり、給料やボーナスをほとんどそれにつぎ込む事になるので、「手を出してはいけない」のだ。それでいて、男性にとって、程度の差こそあれこの三つはいずれも魅力的なジャンルである事には間違いないから、一応「神器」となる。

車は確かにそうだと思う。高級車を買ったり、そうでないにしても改造し始めたりアクセサリーに凝ったりすると確かにお金はかかりそうだ。オーディオも、この場合は正確にはAV機器をさし、例えばホームシアターなどに凝り始めたが最後、湯水のようにお金が出ていくに違いない。

だが、この言葉を知った頃、私はそっち方面の知識に疎くて、腕時計に関しては「?」と思った。確かに本屋さんに行くと腕時計の本が並んでいるくらいは知っていたが、立ち読みをした事がなかったので、実態を知らなかった。

ある日「そういうもんかな」と思いながら腕時計の雑誌を立ち読みしてみた(さほど興味がないから雑誌は買わない)。

目の玉が飛び出そうになった。

「たかが」といっては失礼だが、腕時計一つである。それが、数百万円するものがざらなのだ。見ていると、だんだん金銭感覚がおかしくなってきて、100万円台のものを見ると「ふーん、安いな」などと思っている自分がいて、その事の方に仰天した。

ところが、ある時期、高いのを承知でいくつか腕時計を買った。無論、3ケタのものなど買えないから、もっと安い時計だったが、それを腕にして調子にのって鼻歌まじりで打ち合わせに行ったりしていて、ある日ふと恐ろしくなった。

「もしこのままハマりこんだらどうする?」

今にして思えば、ハマったってそんなに買えるほどお金がないから途中でやめていたと思うのだが、にしても、何となく空恐ろしい気分になって、以来買わなくなった。

で……。

先日、英会話の授業中の事。

以下はただの雑談ではなく、あくまで会話の勉強で、単純な質疑応答を英語で繰り返していた時。

大柄なイギリス人のH先生が質問した。

H先生「あなたの一番好きな車は何ですか?」

私「は?」

H先生「車種です。車種」

私「(なるほど)えーと……子供の頃からずっとポルシェが好きです」

以前にこのブログにも書いた、スティーブ・マックィーン主演の「栄光のル・マン」という映画で、我がヒーロー、マックィーンは颯爽とポルシェに乗っていた。また、仮にこの映画がなかったとしても、私は昔からポルシェの独特のフォルムが好きなのだ。町を走っているところをたまたま見かけたりすると、思わず立ち止まって見入ってしまう。

話を元に戻すと……。

私が「ポルシェが好きです」と言ったのを聞いたH先生は、急に目を丸くして大声で言った。

H先生「おーっ!私もポルシェが一番好きです!」

英会話のための単純な質疑応答だが、その瞬間はH先生は本気で喜んでいた。聞いてみると、どうやら私同様本当にあのフォルムがたまらないらしい。

で、さらにその数日前に、私はたまたま近所の本屋でポルシェの写真集を買ったばかりだったので、それを言おうとした。

私「えー……先日、ポルシェを……」

H先生「ええっ?!買ったのですか?!」

私「まさか!ポルシェの写真集を買ったんです」

H先生「……」

私は最初に「ポルシェの」写真集をと言おうとして、英語に不慣れなためにうっかり「ポルシェを」と間違えて言いそうになったのだ。

ポルシェなんて、いくら好きでも買えるはずもない。仮に膨大なローンを組んで買ったとしても、あんな馬力のある車を、運転の下手くそな私が走らせようものなら、勢いあまってロケットのようにあらぬ方向に吹っ飛んでいくのは間違いない。

本気で驚いたのを恥じるように、H先生は咳払いをして授業を再開した。

男子にとって最高のものとは、洋の東西を問わず、かくも男子を翻弄するものなのだ。

「手を出してはならない三種の神器」という言葉には、そんな悪魔的な響きも潜んでいる。

幸いな事に、三つのうちのどれにもハマらずにぼんやりと暮している私。

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2009年12月 6日 (日)

師走の会議あれこれ

何度も書いているようで恐縮だが、仕事が忙しくなると更新が滞る。

楽しみにしている方、申し訳ありません。

今日は会議の話。私の場合は脚本会議。

脚本家は、ただ原稿を書くだけではなく、何度となく会議に行く。監督やプロデューサー、その他の人々と脚本の内容を詰め、修正するためである。

実は表題に書いた師走とはあまり関係ないのだが、忙しいとこの会議の数も自動的に増える仕組みになっていて、近頃やたらと出かけていく。だいたいは製作会社や局、スタジオの会議室なのだが、原稿がたてこんできて出かける時間が取れなくなってくると、家の近くの喫茶店まで来ていただく事もある。

会議室での脚本会議は、何しろ会議室だから、当然のように「会議然」としていて何の違和感もない。

だが、喫茶店での会議となるとちょっと事情は違って、勿論会議専門の喫茶店などあるはずもなく、街のごく普通の店でする訳だから、周囲のテーブルには様々なお客さんがいる。例えば、私とプロデューサーがコーヒーを飲みながら、「で、主人公のキャラクターはどんな感じにしましょうか?」などと話している横では、カルチャー・クラブ系の集まりの帰りらしき主婦の方が何人か、街の噂話をしていたりする。

双方席が近いから否応なしに会話が聞こえてくる。

主婦「でね、今度あそこに新しいお店ができるらしいんだけど」

私「で……主人公の名前はもっと違う感じの方がいいですかね?」

主婦「へー、レストランかしら」

私「(ついその声が聞こえ、何でレストラン限定なんだ?と不思議に思いつつも)いや、やっぱりこの名前のまんまの方がいいですかね」

主婦「さー、レストランかどうかはわからないけど、今、工事してるわよ」

プロデューサー「ま、名前は当面このままにしておきましょう」

などと、ごちゃごちゃになる事がある。最も、考えてみると、主婦の皆さんにしても事情は私たちと同じ訳で、「あの人たちは一体何の話をしているのやら」と思っているのは間違いない。内容からいって芸能関係の仕事には違いないが、といって一見有名人ではないし、おじさんが二人コーヒーを飲みながらボソボソと話している訳だから、だいぶうさんくさい。

さらに不思議なもので、こういう喫茶店での会議は、暮れになってくると妙に気分がなじむというか、違和感がなくなる。皆が慌ただしいからなのかどうか理由はよくわからない。

いずれにしても、原稿と会議三昧で多少疲れ気味の私。

果たして、無事に年を越せるのだろうか……。

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2009年12月 3日 (木)

坂の上の雲

今日は冬の冷たい雨で気温は低いが、この間の日曜日から心が軽いのであまり苦にならない。

この感覚は久し振りだと思う。次週が楽しみなドラマというのは、久しく忘れていた。

NHKで「坂の上の雲」というドラマの放送が始まった。司馬遼太郎の原作をドラマ化する大作である。第一話を観て、テレビの前でひっくり返りそうになった。

素晴らしい。物凄い。唖然とする。演出も、俳優さんたちの演技も、美術も、音楽も何もかもが素晴らしい。

以下、これから再放送でご覧になろうという方は、ネタバレがありますのでご注意下さい。

明治になってすぐ、四国の松山に三人の少年がいる。秋山真之(後の海軍軍人)、その兄の好古(後の陸軍軍人)、そして二人の共通の幼馴染、後の歌人、正岡子規。

物語は、この三人の生涯を描いていくものである。時代は明治。政府は列強に対抗すべく国家増強を図り、軍を持ち、強くし、それを維持するために国を富まそうとする。一方で西洋文明がなだれのように日本に入ってくる時代でもあり、世は新鮮な驚きに満ちている……。

私は高校から大学にかけて、司馬遼太郎の作品が大好きで(今でも好きだが)、片っぱしから読み漁った。「竜馬がゆく」、「新撰組血風録」、「城塞」、「胡蝶の夢」、「国盗り物語」、あげたらキリがない。その中でも、私が最も好きなのはこの「坂の上の雲」で、様々異論もあろうかと思うが、私は司馬遼太郎作品のベスト1だと思っている。

息をするのも忘れるほど夢中で読んだ。面白くて止まらないし、トイレに行く時間ももったいない。三人の若者が明治の激動とともに成長していく様子は実に面白かったし、物語の後半、クライマックスに至っては、日露戦争時の日本海海戦、同じく203高地の激戦、そのそれぞれに、極めて優秀な軍人となった弟と兄が参戦し、ともにロシア軍と激突するという展開で、あまりの大スペクタクルの凄さにあれよあれよという間に読み終わってしまった。

今でもどうでもいい事だが覚えていて、最後のページを読み終わったのは、真夏の蒸し暑い日で、空はどんよりと曇っていた。その雲を見ながらぼんやりと思ったものだ。

「すごすぎる……こんなの映画やドラマじゃ無理だよな」

当時の私は、小説を読むとだいたいそれを映像に置き換えるクセがあって、この「坂の上の雲」も、もし映画館やテレビで観るならどんな感じになるんだろう、俳優さんは誰がいいんだろうなどと思いながら読んだのだ。

だが、そういう問題ではなかった。特にクライマックスの日本海海戦の、延々と続くディティールの描写の精緻な事、そしてその海戦が息をのむ迫力で活写されている事、そこが映像的に失敗すると作品が根底からダメになってしまう事、そんな理由で、とても映像化は無理だろうなと思った。事実、どなただかが、かつてエッセイか何かで同様の事を書かれていて、「やっぱりそうだよなあ」と思った事もあったくらいだ。

だが……。

NHKは遂にその、「映像化不可能」の世界に踏み込み、そして成功した。それも大成功である。「まだ第一話しか観ていないのに」と思う方もいらっしゃるだろうが、これは間違いない。

原作を極力忠実に再現しようとするあの真摯な姿勢。それでいて、映像への転換も綿密に計算されている演出。本木雅弘さん、阿部寛さん、香川照之さんの匂い立つような演技。久石譲さんの美しくかつダイナミックで、にも関わらず画面に溶け込む音楽。そして最も秀逸といっていい、美術、撮影、照明の絶妙のコンビネーション。作りものの限界を超えたリアリズムと驚異的な質感がそこにはある。

第一話は唸るしかなかった。

司馬作品の中の最高峰と信じる原作が、かくも見事な形で映像化されたのを間の当たりにして、同じ映像の仕事をする人間として、「これは自分も頑張らないと」と素直に思った。

と同時に……。

久しぶりに「待ち遠しいもの」が現れてくれて、少年の日のようにわくわくもしている私。

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2009年12月 1日 (火)

みかんの暮れ

今年の正月の光景もまだ鮮明に覚えているというのに、今日でもう12月になってしまった。

子供の頃、特に10代の頃、毎年12月は毎日体が浮き立つような気分で過ごしていた。これまでにこのブログに何度も書いたが、あけても暮れても映画の事しか頭にない少年だったので、12月に封切られる、いわゆる「お正月映画」が楽しみだったのだ。

最近はこの「お正月映画」という言い方をあまりしなくなってしまったが、当時は「お正月映画」は一年の中ではスペシャルな位置にあった。正確に言うと、12月中に封切られて、年をまたいで翌年の1月末くらいまで、大ヒットするとさらにその先まで公開される映画全般をさすもので、当時は特に外国映画の大作がこの季節に集中した。

映画雑誌やぴあでその情報をチェックし、公開日と劇場を確認し、毎日いまかいまかと待つ日々。それが12月だった。

そして、そんな事をしている時、私はいつもみかんを食べていた。

最近はそうでもなくなってしまったのだが、子供の頃は自分でも呆れるほどみかんが好きで、こたつの上に置いてあるやつを片っ端から食べてしまう。映画雑誌をパラパラ読みながら食べていると、いつの間にか目の前にみかんの皮が山盛りにっていて、さすがに自分でも「これは食べ過ぎだな」などと思った記憶がある。

中学生の時、12月のこの時期に、「カサンドラ・クロス」というヨーロッパ発の大作が来た。監督はよく知らない名前の人だし、大作の割にはアメリカ映画ではないし、それでいてパート・ランカスターやリチャード・ハリス、ひいてはソフィア・ローレンまで出ているという豪華さで、これも楽しみにしていた。ヨーロッパを縦断する国際列車の車内に細菌兵器が蔓延してしまい、軍がその秘密を隠すために、感染した乗客ごと走る列車を渓谷に突き落とそうとするという、とんでもないお話である。

映画はとても面白かった。私は一人で映画館に観に行って堪能した。で、内容もさることながら、今でもよく覚えているのだが、この映画を観ている最中に、家からジャンバーのポケットに入れて持っていったみかんを食べたのだ。当時の映画館は今のシネコンと違って、ちょっと潰れぎみのあんぱんとか、スルメとか、そんなものしか売っておらず、しかもそれが見た目の印象の悪さの割には高かった。もったいないしおいしくないので、それだったら家からみかんを持っていった方がいいだろうと思ったのだ。

だから、「カサンドラ・クロス」は、私の中では「みかんの匂いのする映画」なのである。

そう考えてみると、この「お正月映画」は、どれもみかんの匂いがするし、私の脳内では何となくみかんのオレンジ色のようなイメージになっている。「レイダース/失われたアーク」とか、「E.T」とか、「シャイニング」、「コンドル」、とどめは「ジョーズ」……。みんなみかん色だ(ちなみに、こうやってあげてみると、当時のスピルバーグ作品はお正月映画で来る事が多かったようだ)

ポケットにみかんを一個入れて観に行ったこれらの映画は今でも懐かしいし、傑作もそうでないものもみんなよく覚えている。

映画小僧の師走のヒトコマである。

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2009年11月27日 (金)

匂いとカオス

ここのところ、毎日原稿とのギリギリの戦いが続いている。なのでどうにも更新ができず……。

禁煙が遂に明日で6週間目に入る。最近はほとんど吸いたいと思わなくなってきたので、それはとてもめでたい。

だが、こうなるとまた色々な事が起きて興味深い。

まず、これまでこのブログにずっと書いてきた威力絶大の「ニコチン・パッド」だが、今週の初めくらいから使用しなくなった。ある時、仕事部屋のパソコンの前に座って普通に原稿を書いていたら、ちょっとトイレに立とうとした時に目まいがしたのだ。

私「?……」

特に二日酔いでもないし、体調も悪くない。

私「何だこれは……」

ちょっと頭がふらふらしながらもあれこれ考えてみると、思い当った。

私「あー……あれだ……」

若い頃、初めてタバコを吸った時。あるいは海外に行く飛行機の中でずっと我慢していて現地の空港で吸った時。ふらーっとするのだ。

タバコをやめて一か月近くがたっていたのにどうにもふらっとする。

私「もしかして……」

まだ午前中だったが、朝貼ったパットをはずしてみた。

目まいはあっという間に治ってしまった。つまり、体にニコチンを注入して禁煙を補助するパッドが、私の場合そろそろいらなくなったという事らしい。目まいがしていては仕事にならないので、以来パッチは卒業した。

で……。

これが不思議なもので、禁煙してからというもの、私は様々な物の「匂い」にすっかり敏感になってしまったのだ。タバコのせいでよほど嗅覚がマヒしていたのだろうか、以前は何とも思わなかった匂いがやけに鼻につく。

例えばお米の匂い。我が家は健康の事も考えて玄米を食べているのだが、これが突然、玄米独特の匂いが鼻につくようになって食べられなくなってしまった。妻は慌てて精米機を買ってくれたりして対応しているが、こんな事が頻繁に起こるようになった。

道を歩いていると、車の排気ガスの匂いがやけに気になる。これまでは好きだったレストランの、必ず頼む料理が匂いが強すぎて食べられなくなっていたり、逆に、これまではあまり好きではなかった料理を頼んだら、その香りが思いのほかよくて食が進んだり。

さらに……。

妻に言わせると「飲み過ぎだ」というのだが、それとは別に、朝起きられなくなってしまった。実は、ある時「しまった!」と思い出したのだが、かつて何度か禁煙に挑んだ時、吸っていない時に比べて異常なほどに眠くなる経験をしていて、それが今出てきているらしいのだ。喫煙していた頃は、朝目が覚めるとすぐにタバコが吸いたいからスッと起きていたのだが、「起きる理由がなくなってしまう」と、これが最近の冬の朝の寒さも相まってどうにも布団から出られない。だが、その日の仕事の予定は決まっているからいつまでも寝てはいられない。

何とか頑張って起き、仕事をしようとすると今度は家の中のありとあらゆる物の匂いが気になりだし、パソコンの前に座っても仕事を始めるまでにずいぶんと時間がかかる。

最近の私が、毎朝パソコンの前で決まっていう言葉がある。

私「うーん……まいった……」

毎日がカオス(混沌)なのである。仕事がぎゅうぎゅうづめで忙しいところに、今まで忘れていた匂いの数々が充満していて、つい、「うーん……まいった……」と呟いてしまう。

それでもなお、毎日仕事をこなしている。我ながら呆れてしまう。

これが年の瀬になってくると、クリスマス・パーティーや忘年会が増えて、カオスの度合はより一層高まっていくのだが、それでも不思議と仕事は進む。ほんとに不思議なものだ。

はたして……。

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«はたして……まだまだ続く