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H監督の声

H監督。

テレビドラマの脚本の何本かでご一緒させていただいた。テレビドラマでのヒット作は多いし、映画監督としてもヒットを出しているベテラン監督。長年のキャリアに裏打ちされた安定感と、「攻めの姿勢」が絶妙のバランスで同居していて、完成作のクォリティーはいつも高い。

H監督は巨漢である。ご本人は「最近ダイエットでウォーキングを始めてね」と言い、実際若干スリムになったが、そのエネルギーは凄まじい。何と、2リットルのペットボトルのお茶をコップなど使わずにゴクゴク飲むタイプ。

そして、とにかく声が大きい。脚本の打ち合わせのためにテレビ局や収録スタジオに行くと、どこからともなく監督の大声が聞こえてくる。その声をたどっていくと、必ず出会えるという感じ。同じテーブルに座って打ち合わせをしていると、その大声と大砲のような笑い声で、至近距離に座っているこちらの鼓幕がビリビリ振動する。

ちょっと前に、そのH監督作品の脚本を書かせていただいた。二時間のテレビスペシャルである。脚本会議は順調に進み、いよいよクランク・イン。

その作品はオール地方ロケで、私は妻と一緒に一泊の予定で現地に陣中見舞いに伺った。

現地の一般の方の家を(大変趣きのあるお宅だった)お借りしての撮影である。

私たちが到着した時には既に撮影は進んでいて、予想通り、そのお宅の中からH監督のとてつもない大声が聞こえている。

H監督の声「オッケェェェェェー!(注。単に「OK」の意味)」

古く趣きのあるそのお宅がビリビリと振動するような声だった。

監督にご挨拶をし、「おー!わざわざここまで来たか!」と上機嫌に言われ、「よろしくお願いします」などと小さい声で言う私。

休憩時間になると、監督はスタッフと一緒にどこかに打ち合わせに行った。

と、私はたまたまその作品の主演をつとめる若い女優さんと一緒になった。いわゆる「待ち時間」である。

女優さん「始めまして。○○と申します。よろしくお願いします」

私「はい。よろしくお願いします」

日頃、ドラマや映画、それにCMでしばしば見ている有名女優さん。実際に見ると、映像の何倍も美しい。そして礼儀正しいし、役者として「凛」とした風情がなおさら美しい。

こういう場合、私はいつも言葉を失う。何を話したらいいか皆目見当がつかなくなり、頭の中は真っ白になってしまう。

私「……」

女優さん「……」

その後必死になって会話を成立させようとして、私は頑張った。今回の作品はこういう意図で、女優さんのキャラクターはこんな感じで書きましたとか、何とか。だが、これはいつもとても難しいのだが、監督は既に役者さんたちと入念に打ち合わせをしている。キャラクターの作り込みも監督と役者さんとの間でプランが立っている。そんな時に、へらへらと現場にやってきたライターが無責任な事を言うと、監督と役者さんの間で完成されているはずのプランが微妙に崩れてしまうのだ。

なので極めて話づらい。当然、会話はすぐに尽きてしまう。つまり、とても気まずい状況になる(他に話す事もないからね)。

と……。

私はこの気まずい空気を何とかしなければと思い、そしてハッとひらめいた。

私「H監督って、声、でかくないですか?」

女優さん「え?」

 その女優さんは以前にも何度かH監督作品に出演している。

 彼女はとても控え目に、そして美しく笑いだした。

女優さん「ええ……大きいですよね」

私「でしょ?」

女優さん「ハンドマイクとか、いらない感じですよね」

私「でしょ?」

私と女優さんは思わず噴き出した。H監督のどでかい声のお陰で、何とか会話が成立したのだ。

翌日。

東京に戻る前に午前中の撮影を見に伺った。

そこは山間部の林に囲まれた小さな小川。周囲に住宅街はあるものの、カメラアングルでうまく処理できれば、極めて美しい風景が撮れる場所だった。

私と妻が到着すると既に撮影は始まっていて、主役の若い女優さんは長靴をはき、その小川にズブズブとわけいっていく。

無論彼女はただ美しいだけではない。髪を振り乱し、役者として迫真の演技をしている。

と……。

本番が終わり、H監督のあり得ない大音量の声が小川に響き渡り、周囲の林にまでわんわんと反響した。

H監督「カァーーーーーーーットォォォォォッ!」(注。単なる『カット!』である)

女優さんは次のテイクに備えるべく、小川の中で凛として待機している。

飛行機の都合でもうすぐ帰らなければいけない私。あまり時間がない。

かなり離れた距離からだったが、女優さんと目があった。

以下、アイコンタクトのみの無言の会話。

私「……(お疲れ様です。今日もまた、監督の声、デカイですね)」

上品に微笑む女優さん。

女優さん「……(だいじょぶです。がんばります!)」

その後彼女は、かなりの長時間、長靴を履いたまま小川の中をジャブジャブと歩きまわりながら、その日の撮影を終えたらしい。

お陰でH監督のテレビスペシャルはいい仕上がりだった。残念ながら視聴率はいま一つだったが、彼女のがんばりもあって、私は参加してよかったと思った。

芸能界は、実は世間の皆さんが思っているほど華麗でも派手でもない。作品に全精力を傾けて大声で叫びまくる監督や、そのビリビリする声を聞きながら一日中小川につかっている俳優さんたちが日夜身を粉にして働いている世界なのだ。

とは言え、生身の女優さんと至近距離でお話させていただき、皆の苦労も知らず、「なんてきれいなんだ……」とボーッとしていたライターの私もいる。

この仕事が病みつきになるのは、こういう瞬間なのです。

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